市民社会のリアリズム

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   先日、高畠通敏さん(政治学者・2004年没)の著作を読んでいたら、リアリズムの多層性に関する記述に出会った。私なりに大雑把に言い換えるならば、いわゆる安全保障のリアリズム、原子力発電に関わるエネルギー供給のリアリズム等々は確かにリアリズムだとしても、異なる立場や文脈においては、それらと異なる別のリアリズムがあり得るということだ。主流となっているリアリズムの枠内で不毛な議論を繰り返すよりも、別のリアリズムの可能性を示しつつ、議論の枠組みを拡大していくことのほうが有益だろう。

 

   ドイツ連邦共和国と幾つかの企業が周辺諸国や被害者団体と形成してきた「戦後和解」は、政治的・経済的なリアリズムに基づくものであり、残念ながら、必ずしもそこに被害者への深い思いが存在しているというわけではない。しかし一方、ドイツの市民社会のなかには、ナチス犯罪の「過去」との対決を通じて、骨太な人権感覚が根付いてきた。ドイツのいくつかの街を歩き、ドイツの友人たちと付き合うなかで、私はそれを実感してきた。これは、政治的リアリズムとは別の、健全な人間関係をまっとうに築くことの重要性をとらえた市民社会のリアリズムだろう。
この両面を見なければ、ドイツの「和解」(というよりも「過去の克服」)の意味・価値に触れたことにはならない。ドイツの戦後処理の政治的側面のみに注目し、その価値を全体として低く見積もろうとする言説も見受けられるが、およそ同意できない。

   

   武井さんの新しい著作、どんな内容なのだろう。タイトルを見ると、主として政治的リアリズムに関わる研究のようだが、上に述べたような薄っぺらい言説とは別次元のものであるはずだ。ぜひ読んでみたい。

 

   それにしても、このインタビュー記事のリードにある「ドイツ人とユダヤ人の和解が可能になったのは…」という記述がどうしても気になる。こういう不用意な表現、いい加減なんとかならないか。和解できない人間がいる、被害者はそのことで苦しみ続けるということもまた、私たちが直視すべき人間のリアリズムではないのか。