大学入試センター試験の「ムーミン」問題

大学入試センター試験の「ムーミン」問題。このレベルで話を終わらせて良いのだろうか。

 『ムーミン』はフィンランド在住の作家トーベ・ヤンソンが書いた作品だが、フィンランド語ではなく、スウェーデン語で書かれている。トーベ・ヤンソンスウェーデンフィンランド人であり、スウェーデン語を母語として育ったという。当時、フィンランド国内で一割にも満たない言語的少数派だった。

 

 しかし、今回話題となっているセンター試験問題は、「ムーミン」と「フィンランド語」がセットになった選択肢を選ばせる形になっている。つまり「フィンランドムーミンフィンランド語」という発想を求める形式になってしまっている。大阪大学大学院スウェーデン語研究室の「見解」でも指摘されている通り、これではムーミンフィンランド語で書かれているとの誤解が生まれてしまう。そして、この設問は「フィンランド文化の多言語性、とりわけフィンランドにおいてはスウェーデン語のような少数言語の存在を無視する危険性を孕む」(同研究室「見解」)と言えるだろう。「フィンランドフィンランド語=作品」というイメージがつくられてしまい、フィンランド内の言語・文化の多様性が見えなくなる。

 北欧に限らず、世界が「多文化」状況にあることはすでに「常識」だ。一つの社会のなかに異なった複数の文化があるという現実を、私たちは、そして新しい時代を担っていく若者たちは、当たり前のこととして捉え、そこで生じ得るいくつもの問題に真正面から取り組んでいかなければならないはずだ。こうした現実を前に、誤解を生じかねない入試問題がつくられてしまったことを極めて残念に思う。

 

今回の問題の範囲を超えて、少し話を広げる。

 イ・ヨンスクさん(社会言語学者)が、「国民文学」という概念を批判し、こんなことを書いている。

「作者の帰属、作品の言語、作品の内容がそれぞれ「国民」」の枠組みにおさまることで、文学は「国民」をささえると同時に表現するものとなる。そこから、自国の作者が自国の言葉で自国にふさわしい内容を書いた作品こそが、自然で普通の文学のありかたであると思い込んでしまう。(中略)ところが、日本で生まれて日本語を母語として身につけながら、別の国に移民として住むようになり、その国の言語で作品を書いたとしたら、その作品はいったいどこに所属するのだろうか。二重国籍の人間がいるのとおなじように、二重国籍の文学があってもいいのではないだろうか。」『異邦の記憶ー故郷・国家・自由』

 

 センター試験作問者の意識のなかに、「国家=言語=作品」という思い込みはなかっただろうか。

文学研究の世界では、主に90年代以降、「満州」や植民地下の朝鮮・台湾の文学作品に目が向けられるようになった。その研究対象には、当然のことながら、支配者の言葉である日本語での創作を余儀なくされた多くの作家たちの営みも含まれている。彼らの作品は、「日本文学」なのか。同様の研究は世界各地にある。

 大学入試センター試験を受けるのは、こうした学問の世界へ飛び込もうとする人びとだ。

 

 

 大学入試問題は、翌年以降の受験生たちの「受験対策」に活用されることから、大学受験生に対する大学からのメッセージという性格を持つ。「大学生として学ぶ資格を得るためには、こうした問題に解答できる力を身につける必要がある」というメッセージだ。受験生たちはそうしたメッセージを(無意識にせよ)受け取り、試験の準備を重ねる。そう考えた時、「ムーミン」問題は、大学受験生たちに望ましくないメッセージを発信してしまったことにならないのだろうか。

市民社会のリアリズム

synodos.jp

 

   先日、高畠通敏さん(政治学者・2004年没)の著作を読んでいたら、リアリズムの多層性に関する記述に出会った。私なりに大雑把に言い換えるならば、いわゆる安全保障のリアリズム、原子力発電に関わるエネルギー供給のリアリズム等々は確かにリアリズムだとしても、異なる立場や文脈においては、それらと異なる別のリアリズムがあり得るということだ。主流となっているリアリズムの枠内で不毛な議論を繰り返すよりも、別のリアリズムの可能性を示しつつ、議論の枠組みを拡大していくことのほうが有益だろう。

 

   ドイツ連邦共和国と幾つかの企業が周辺諸国や被害者団体と形成してきた「戦後和解」は、政治的・経済的なリアリズムに基づくものであり、残念ながら、必ずしもそこに被害者への深い思いが存在しているというわけではない。しかし一方、ドイツの市民社会のなかには、ナチス犯罪の「過去」との対決を通じて、骨太な人権感覚が根付いてきた。ドイツのいくつかの街を歩き、ドイツの友人たちと付き合うなかで、私はそれを実感してきた。これは、政治的リアリズムとは別の、健全な人間関係をまっとうに築くことの重要性をとらえた市民社会のリアリズムだろう。
この両面を見なければ、ドイツの「和解」(というよりも「過去の克服」)の意味・価値に触れたことにはならない。ドイツの戦後処理の政治的側面のみに注目し、その価値を全体として低く見積もろうとする言説も見受けられるが、およそ同意できない。

   

   武井さんの新しい著作、どんな内容なのだろう。タイトルを見ると、主として政治的リアリズムに関わる研究のようだが、上に述べたような薄っぺらい言説とは別次元のものであるはずだ。ぜひ読んでみたい。

 

   それにしても、このインタビュー記事のリードにある「ドイツ人とユダヤ人の和解が可能になったのは…」という記述がどうしても気になる。こういう不用意な表現、いい加減なんとかならないか。和解できない人間がいる、被害者はそのことで苦しみ続けるということもまた、私たちが直視すべき人間のリアリズムではないのか。

 

 

カンボジアでの和解の試み

 2016年6月17日のNHK・BS「国際報道2016」で、カンボジア関連の小特集が放送された。1970年代、大量の虐殺等がおこなわれたポルポト政権下の歴史にかかわる報道だ。ひとつは、虐殺等の加害者と被害者との間に和解を実現しようとする試みに関するレポート。もうひとつは、7月から岩波ホールで公開される映画「シアター・プノンペン」の紹介だった。

 
 加害者・被害者の和解を目指す試みは、The Transcultural Psychosocial Organization (TPO) Cambodia というNGOがその広範な活動の一環としておこなっているもの。同NGOは、DV被害者へのケアなどをも行うメンタルヘルスの専門家たちで構成されている。
 プロジェクトのメンバーは、加害者と被害者それぞれと話をしながら対話を促し、両者が合意した際には話し合いの場をもうける。複数回の対話を通じて加害者は被害者に謝罪し、被害者はそれを受け入れて和解する。和解後は寺院を訪れて和解を報告し、友人として生きていくことを誓うのだという。
 ただし、過去二年間の取り組みで、和解にいたったのは二件のみ。当たり前のことだが、やはり和解というのは、そう簡単なことではない。

 カンボジアにおいて加害者と被害者は、ひとつのコミュニティ、ひとつの社会のなかで「隣人」として生き続けなければならない。その日常はどれほど重く、苦しいものだろうか。こうした日常を強いられた一人一人の人間に寄り添い、彼らが抱える問題と誠実に向き会おうとする活動に、敬意を表したい。
 和解を促そうという試みは、ある意味で暴力的だ。その厳しさ、重さを意識し、自覚しながら、和解という問題を考えたい。少なくとも、被害当事者にとっての「出来事」の意味を忘れ、抽象的な人間集団間の(たとえば「日本」と「韓国」との政治的・文化的レベルでの)「和解」を語るなどということを、私はしたくない。 
 
 映画「シアター・プノンペン」は、主人公の若い女性が、両親の過去=ポルポト時代の重い記憶と出会っていくという話らしい。東京では、7月2日から岩波ホールで公開。
 

ハンギョレ新聞記事「不可逆的な韓日慰安婦合意に価値はない 世界的公論化は不可避」

 

 ハンギョレ新聞の2016年3月11日付記事「不可逆的な韓日慰安婦合意に価値はない 世界的公論化は不可避」を読んだ。

 

 ドイツ語のanerkennen(「認める」等の意)という言葉・概念について私に教えてくれたのは、この記事に名前が出てくる梶村道子さんだった。90年代に、ベルリンで梶村さんらが「慰安婦」問題にかかわる写真展を行った際、手伝ってくれたドイツ人の展示デザイナーたちが、「『慰安婦』とされた女性たちに対する私たちのanerkennung として、展示場に赤い薔薇を絶やさないようにする」と言ったという。このエピソードを通じて梶村さんは、この言葉の持つ本当の意味は「相手に対する尊敬の意を込めて、その存在を正しく正当に認めること」なのだと私に教えてくれた。
 被害者への敬意と承認を継続すること、被害者の痛みに社会が寄り添い続けること。そしてそれを現在と未来のあり方に活かすこと。補償金支払いや公的な「謝罪」は、その具体的な表現でしかない。歴史を共有するための、持続的な作業が求められる(例えば広島と長崎で、同様のことはすでに公的に行われ続けている)。


 しかし、私たちが生きるこの場所は、「慰安婦」問題から目を背け、否認しようとする言葉に満ちている。痛みを被った人たちが怒り、納得しないのも当然だろう。
 90年代から私は、戦後補償問題に「解決」という語を用いるべきではないと言い続けてきた。「解決」という語は、「終結」のイメージをともない、それは「忘却」をも意味すると思えたからだ。自分が発言する際には「戦後補償の実現」という表現を用いてきた。
 「慰安婦」問題の「最終的解決」だとされる昨年末の「日韓合意」を私が批判的に見る理由の一つが、この点である。

  記事は、ベルリンで行われた、日韓合意に関する懇談会の様子を伝えるもの。
 「記憶、責任、未来財団」顧問のウタ・ゲルラント氏はこう述べている。
慰安婦犠牲者はより多くの共感、連帯、また歴史的事実に対する公式的認定を必要としている。 和解はできるかもしれないし、できないかもしれない。 和解を人為的に作り出すことはできず、互いに強要できないことだ」
 

 歴史学者・吉見義明氏を原告とする損害賠償等請求裁判の一審判決がくだされた(2016年1月20日東京地方裁判所。判決文はこちら =「YOSHIMI裁判いっしょにアクション 」のウェブサイト内)。


 2013年5月27日、当時「日本維新の会」所属の衆議院議員だった桜内文城氏が、日本外国特派員協会の記者会見において、司会者の発言をうけて「ヒストリーブックスということで吉見さんという方の本を引用されておりましたけれども、これはすでに捏造であるということが、いろんな証拠によって明らかにされています」との発言をおこなった。今回判決のあった裁判は、吉見氏がこの言を名誉棄損にあたるとして訴えていたものである。


裁判所は、桜内氏の発言が「原告の社会的評価を低下させる名誉棄損に該当する」としつつも、原告の請求を棄却した。「捏造だ」という桜内氏の発言を「意見ないし、論評の表明に属する」とした同判決は、「ある事実を基礎としての論評の表明による名誉棄損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあった場合に、…人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り、その行為は違法性を欠くものと解するのが相当である」という免責要件を示したうえで、桜内氏の発言が「『従軍慰安婦の置かれた境遇をどのように理解すべきか』ということを論じたものであるから、公共の利害に関するものであり、その目的が専ら公益を図ることにあったと認められる」「司会者の発言にその場で直ちに対応するために口頭で述べた短いコメントにすぎないことや本件発言の内容、経緯などからすれば、未だ原告に対する人身攻撃に及ぶものとまではいえず、意見ないし論評の域を逸脱したものということはできない」等として、「本件発言は違法性が阻却されるから、被告は本件発言について免責される」と判断している。


以下、気になったことを法律の「素人」として書く。内容の妥当性に自信はないので、後日書き直すことを前提にしたメモである。
(なお、私はこの裁判を直接支援してきた者ではない。したがって、以下のメモは、裁判原告や原告代理人、支援者の意見を代弁するものではない。迷惑がかからないよう、付け加えておく)


判決文では、以下のように述べられている。

●「捏造」という言葉を、本来の語法どおりに理解するならば、「事実でないことを事実のように拵えて言うこと」という意味になる。


そして、
従軍慰安婦が「性奴隷であった」かどうかは、事実そのものではなく、そう評価すべきかどうかという問題であるから、事実について用いられる「捏造」という言葉はそぐわない。


したがって、
●桜内氏の発言を耳にした者が、この「捏造」という言葉を本来の語法どおりに理解するかは疑問だ。一般の視聴者は、本件発言中の「捏造」という言葉を「誤りである」あるいは「不適当だ」などの意味に受け取るか、せいぜい本件発言の経緯と文脈から「論理の飛躍がある」などの趣旨に理解するにすぎないものと認められる。特派員協会から依頼を受けた中立的な立場にある翻訳者も、「捏造」という言葉を「捏造」という意味を表す英語ではなく、「誤り」あるいは「不適当な」という意味を表す語で英訳している。


ここから、気になったこと三点をメモしておく。


一、
判決文は、「吉見氏(の記述)は捏造だ」というときの「捏造」という語を、それを受け取る側が「言い間違い」「語の選択の間違い」であるとみなし、文脈に合うよう「不適当だ」等の意に解するはずだと述べているように読める。
このような解釈が可能となるのは、(裁判所によれば)「捏造」という語が、「性奴隷であったかどうか」という評価をめぐる言説にふさわしくないものだからだ。たしかに、同一の事実に対して、評価がわかれることは少なくない。その際、「この事実をAと評価するのは不適当だ、間違いだ」という批判が生じることはあり、それは言論の世界でごく普通におこなわれるコミュニケーションの一つにすぎないだろう。
しかし、「文脈」と「語の意味」のこうしたズレは、同時に、逆の解釈をも可能にする。

 文脈を前提にして、「捏造」という語を他の語に置き換えて解釈する「好意的聴き手」とは反対に、「捏造」という語の本来の意味を前提にして、その本来の意味にあわせて桜内氏の発言全体を理解する聴き手が少なからずいるであろうことも、否定できないと思われる。つまり、「捏造だ」という言葉を聴いた者が、「吉見氏は、慰安婦制度が性奴隷制度であるという虚偽の主張をするために、研究者でありながら歴史的事実を捻じ曲げ、あるいは意図的に虚偽の事実をつくりあげて、それを世界に広めようとしている人物だ」と解する可能性がある。むしろ、「捏造」と聞けば、通常そのような理解になるに違いないと私には思える。少なくとも私は、桜内氏の発言をそのようなものとしてとらえ、だからこそ問題だと考えてきた。裁判所はなぜ、こうした解釈の可能性を排除しているのだろう。
桜内氏のケースに限らず、これまで「慰安婦問題」で「捏造」という語が使用される際には、まさにそうした意味合いで(あるいは、そうした効果を狙って)この語が使われているのではないか。そう考えると、この「捏造」という言葉を聴き手が「本来の語法どおりに理解するかは疑問がある」という判決文の記述には、強い違和感をおぼえざるを得ない。


二、
判決文は「従軍慰安婦が『性奴隷であった』かどうかは、事実そのものではなくそう評価すべきかどうかという問題であるから、事実について用いられる『捏造』という言葉はそぐわない」としている。今回の判決文を尊重するのであれば、今後、「性奴隷であったかどうか」について「捏造」という語は用いられるべきではないことになる。
裁判で被告は、「原告の著書の内容のうち、慰安婦は性奴隷であると断定している部分は捏造である」と述べているが、この発言も改められるべきだろう。
原告側が主張する通り、「捏造」の語を用いるからには、「『慰安婦』の実情が『性奴隷』でないことを熟知しながら、『性奴隷』であると騙して書いた」ものであるか否かが問われなければならない。
にもかかわらず、もし仮に、今後も「捏造」の語が用いられるのであれば、不適切な語をあえて用いる意図(悪意)がその背後にあると判断されざるを得なくなるだろう。あるいは、「捏造だ」という発言を聴衆が「誤りである」「不適当である」と解すはずだと述べた判決文は、桜内氏の意図に沿わないものだということになる(「吉見氏が騙して書いたのだ」と桜内氏が述べていた可能性を否定できなくなる)。いずれにせよ、今回の判決の論理が綻ぶ結果になるのではないか。


三、
今回の判決では、吉見氏の研究そのものの妥当性が争われたわけではないし、判断されてもいない。したがって、少なくともこの判決を、吉見氏の研究そのものを、あるいは慰安婦制度が「性奴隷制」であるという評価を、「捏造」であると主張する根拠にすることはできない。